寄稿:他にすることがなかったから起業して、海外で屋台を始めた。そして今……
セブから日本に本格的に帰ってきて半年以上が経ちました、はなです。
私は3回合計9ヶ月セブにいる間にたくさんの知り合いができたのですが、その素敵な知り合いの1人がかんどーさんです。
今回、かんどーさんと交換寄稿をするという面白い企画を行いました。
交換寄稿とは、私はかんどーさんのブログサイトへ寄稿し、かんどーさんには私のブログに載せる記事を書いていただくというもの。
海外で起業したかんどーさんは、私が書けないたくさんのネタをお持ちでした。
ぜひお読みください^^
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はなさんのブログをお読みのみなさま、こんにちは。
はてなでブログを3年間毎日更新しています、かんどーと申します。(本名は貫洞沙織です)
はなさんとはセブでなんとなく知り合って、福岡でなんとなく再会しました。お互いまた会えることがわかっていたみたいな、自然な再会でした。(そう思っているのは私だけかもしれませんが・笑)
今回、はなさんのブログに寄稿させていただくことになり、テーマは「起業、新しいことに取り組むことについて」となりました。
私、新しいことにチャレンジしていないと死ぬ病なんです。今回は、そんな病におかされている私の起業物語と、海外(フィリピン)で屋台を始めた話と、これから始めるNPO法人について書きたいと思います。
- 私が起業したきっかけ
- 起業して順調なのに挫折したきっかけは「人殺し」と言われたこと
- 自殺するために海外へ行くようになった
- チャンスは突然「ブロガー無料留学ご招待」に受かった
- セブ島で一人、屋台を出す!
- 今はNPO法人設立準備中! きっかけは屋台だった
- なぜ大学進学支援のNPOなのか?
私が起業したきっかけ
20代の頃。私は何をやってもうまくいかず、友達もおらず、どこにいっても居場所がありませんでした。中途半端な地方都市に住んでいたため、バーもいきつけがないと行きにくいし、カフェでさえおしゃれなお店は友達が働いているとかじゃないと行きにくい感じがありました。無駄に発展はしていたので、東京から「ほったらかしてくれる感」を引いた感じの街でした。住んでいる人の満足度は高かったらしいですが、友達のいない私にとっては寂しさしかありませんでした。
当時、もちろん彼氏なんていませんでした。女しかできない仕事をして寂しさを埋めていました。お金も稼げるし良い仕事だったと今でも思っています。私はあの仕事を真剣にやったし、後悔も隠す気持ちもまったく無いんです。人を気持ちよくする仕事って素敵じゃないですか? 私の中でエステティシャンもあの仕事も変わらないんですよね。どっちも素敵な仕事!
その仕事をやめた後は普通に、工場やコンビニや飲食店で働いていたのですが、やっぱり友達がいませんでした。行きつけのバーがないから一人で家で隠れるようにしてお酒を飲んでいました。アルコール依存症になり、過食症と拒食症と会食恐怖症になっちゃいました。テヘ←そこそこ大ごとになりましたw
友達がいないから、ちょっとしたきっかけでライブなどに誘われても一緒に行ける人がおらず断念しました。本当に生きているのがつらかったです。
そんな私、20代後半にして趣味をすべて手放しました。音楽も、絵も、ゲーム好きな自分もぜんぶ捨てました。そうしたら何も手元に残らなかった。完全に死ぬ準備に入っていました。そこで思いついたのが「危険なことでもなんでも、私は死ぬつもりなんだから出来る」ということでした。そして青年海外協力隊に応募し、インドネシアに短期ボランティアに行ってきました。
活動はとても楽しかった。危険なことなど何一つなかったです。そしてインドネシアから戻ってきて、なにもない日本の自宅アパートでぽつんと座り「何もすることがないや……」とつぶやきました。インドネシアではたくさんの子どもたちが私にまとわりついてきたり、時に貧しさを感じさせる一言を言ったりして、毎日何かしら考えさせられる日々だったのです。そして周りに常に人がいました。人嫌いのくせに、人が周りにいるあの環境が好きでもあった。日本の一人暮らしのアパートに戻ってきて、私は寂しさと虚無で涙も出ませんでした。
私はすることがなさすぎて死にそうだったのです。目先のお金のために月給手取り30万を超える携帯ショップでの販売の仕事を派遣で始めました。その仕事が自分にとても向いており、人よりできることがわかり、その仕事でそのまま起業しました。私と、販売がものすごくできる人と、経理ができる人の三人で起業しました。
起業して順調なのに挫折したきっかけは「人殺し」と言われたこと
起業して最初の二年がドタバタと過ぎ、お金が底をつきそうになるとみんなでバイトをしてでも食いつなぎ、四年目くらいから軌道に乗り始めました。毎月きちんと売り上げが入ってきて、スタッフに給与を支払えていました。(給与が高い会社であり続けたかったので、運営はとても大変でした)
しかし軌道に乗った状態で、今度は販売の現場が私を蝕みました。私は「自分が現場に出ないのに口だけ出す経営者」になりたくなかったので、現場に出続けていたんです。
私が出ていた現場は携帯ショップの接客業です。理不尽なクレームを受けても薄笑いを浮かべたりなだめたりすかしたりしながらやり過ごしているうちに、私は心が壊れてしまいました。
具体的には、あるクレームで私は「お前は人殺しだ!!」と言われました。待ち時間の間に体調が悪くなった同行者が流産した、と言われたのです。「お前が妊婦に対する気配りをしなかったせいで人が一人死んだ!」その時私の頭の中では「診断書は?」でした。絶対に有り得ないと思ったのです。
私は接客業それなりに長いですし、待っているお客様への気遣いは当然していました。まさか具合の悪そうなお客様に何もしないはずがない……そう自分に自信があったのです。
しかし、診断書をくださいと言うより先に謝罪しろと言われました。私は納得がいきませんでした。私は殺人をおかしましたすみませんと謝らなければならなかったのです。
この時私の心の中にまだ神様はいませんでした。
だからこの時私は、自分の心を自分で破壊しました。このことを二度と思い出さなくて済むように。明日からこのことを忘れてまた接客ができるように。だからこの出来事について謝罪した時の記憶もなければ、どんな人だったのかもよく覚えていないのです。「忘れろ」という強い脳からの指令により忘れたのでしょう。あれが冬だったか夏だったかも忘れました。
結果、うまく忘れることはできたのですが、その後食事がまったく喉を通らなくなりました。食べてもすぐに吐いてしまう。おかゆも受け付けなくなったとき、私は点滴通いをするようになりました。携帯ショップの仕事に行ってストレスフルな仕事をして、帰りに総合病院に駆け込んで点滴を打ってもらうのです。移動中も吐き気がしたらビニールに吐く。このころは何も食べていなかったので少しの胃液が出るだけなので、移動くらいならできました。少量ならティッシュに吐き出すくらいですみましたし。
声は毎日枯れていました。胃液でのどがやられていました。お客さんから「あなた口が臭い!」と言われました。担当の美容師さんからも「胃が悪いんじゃない……?」と言われました。
私は「人間が嫌いだな」と思うようになりました。誰の事も好きになることはできない、なぜならどの人間も一皮むけば鬼だと思っていたからです。
自殺するために海外へ行くようになった
私は壊れた心を修復することができず、タイに死にに行くことにしました。
何を食べてもおいしくないし、何もしたいと思えない。現場の無い時間は横になって吐いてるだけ。もう死ぬしかないと思ったのです。
しかしタイでは死にきれず、フィンランドにも行ってみましたがやっぱり死にきれず(旅が楽しかったんですよ……)、結局私は、接客業を続けながら騙し騙し2週間程度のバカンスを取っている、という状態をしばらく続けたのです。
しかし私の一人旅は不評でした。誰に話しても誰もいい顔をしません。
「英語も話せないのに海外行って楽しいの?笑」
「女の子一人じゃあの場所は危険だって! やめなさいよそんなこと」
「誰か友達を連れてきなよ、英語話せる人! 一人旅はあなたに無理だって!」
全部無視しました。だって死にに行くのですから、突発的な事故で死んでも何の後悔もないわけです。ただしつらすぎる死に方は嫌なので、自分なりに強盗の出そうな場所を避けたり朝方の行動に切り替えて夜は外を歩かないように徹底しました。
この時私は英語ができませんでしたから、現地語(タイならタイ語、フィンランドならフィンランド語です)を数字と簡単な挨拶だけ覚えて行っていました。深いコミュニケーションは取れませんでしたが、ちょっと街歩きをするくらいなら問題なかったです。地名を連呼していればその場所に着く、という謎の法則を見つけました。
旅を続けるうちに、欲が出てきました。出会った人ともう少し意思疎通がはかれたら楽しいのに……ということです。自力で英語の勉強をしましたがどうもうまくいきませんでした。自分を信じられなかったから。
私は当時、自分が海外で仕事をするなんて信じられなかったし、実はこのとき海外で仕事をしたいと思い何人かに相談もしていました。しかしその返事は、
「あなたの学歴と英語力で海外で仕事!?笑い 無理無理!! 一生無理!」
「おとなしく日本で仕事しててくださいよ……」
「そもそも日本出る必要ないでしょ」
というものでした。誰も応援してくれなかったです。ただこれは良い意味合いでもありました。日本で一緒に仕事をしている仲間や取引先の方々が「一緒に日本で仕事を続けようよ」という意味で言ってくれていたのもあるからです。
だけどこの時の私はそれがわかっていてもなお、海外へ出たかった。海外で働くってどんな感じなのか、やってみたかった。英語ですべて交渉して買い物して同僚と仕事の話をして……。そんな毎日に身を置きたかった。
チャンスは突然「ブロガー無料留学ご招待」に受かった
私はブログを毎日書いています。2017年の3月、私のブログは月間20万PVほどありました。私はたまたま「ブロガー必見! 月間PV10万以上のブロガーをセブ島に無料で留学ご招待!」という情報がたまたま目に入り、応募したら即採用の返事が来て、私は1か月半フィリピン、セブ島に留学に行くことになりました。(これもかなり反対されましたが押し切って行きました)
1か月半の留学では、多少話せるようになりましたが「旅行で困らないかなあ」くらいのレベルでした。友達ができるレベルではありません。
もっと話したい、実務をしながら経験を積みたい……その思いは日に日に強くなり、私はセブの思い出を整理しながら、私が食い込めるビジネスはどこかと必死で考えていました。
そして、見つけました。
セブ島で一人、屋台を出す!
私は留学中、ある屋台村に何度か行きました。いろんな国の料理が集まっていて、そこそこ味も美味しいお店が多い。屋外フードコートのような感じです。夜しかやっていないけど、生演奏もあってお店の数も50店舗くらいあって広々したテーブルがたくさんあって楽しい。
「あそこに自分でお店を出したらどうだろうか……」
そう思い立ち、約半年かけて計画、情報収集し、屋台をオープンさせました。一番右の顔半分写ってるのが私です。あとはフィリピン人スタッフ! みんな個性豊か。日本人は私だけです。
この屋台も紆余曲折ありました。当初の予定とは少し変わっていますが、結論から言うと「毎日がものすごく充実」しています。毎日とてもたくさんの英語を使います。朝の買い出し、午後の仕込み、夜の営業中のスタッフとのコミュニケーション。近隣屋台の方々との交流。とにかく毎日たくさん英語を話します。
この屋台は今、資金的にギリギリ回る状態まで持ってこられました。スタッフに給料を払って、材料を買って、私が現地でアパートを借りて暮らしていくことができる状態です。ここまで来る道のりは長かったです。。最初の3か月が経営的にきつかったです。6月後半から一気に巻き返し、7月から黒字にしました。
今はNPO法人設立準備中! きっかけは屋台だった
屋台は少しだけ順調になってきました。そして私、日本の会社経営もやめていません。1か月~2か月に1度日本に戻って会社の用事をこなしています。二足のわらじです。でも毎日がすごく充実しています。
こんな毎日の中で、私はあることに気づきました。フィリピンの大学進学率についてです。先進国は70%台の大学進学率なのに比べて、フィリピンの大学進学率は30%台です。屋台で働いてくれているスタッフの中には学生もおり、彼女たちは大学に行くか働くかの答えを出すことになります。ウチの屋台にいるスタッフはわりと真面目な子が多く、何らかの職業に就くことを希望し、そのために大学進学を志している子が多いのですが、中に金銭的な問題で進学が難しいという子がいました。
彼女はいつもそのことで悩んでいるようでした。私は最初はあまり口をはさまなかったのですが、ある日思い立って彼女を呼び出し、話をしました。
・具体的にいくら足りなくて大学進学を躊躇しているのか
・あなたの成績はどのくらいで、どの大学に行けそうなのか
・奨学金をもらうことは可能か
いろいろ聞いていくと、彼女はとても成績優秀で、お金もテキスト代と制服代(フィリピンは大学も制服があります)、あとは大学に通う際の寮費くらいで大丈夫だと言います。もちろんほかに必要なお金はあるのですが、取り急ぎはこれだけで大丈夫だと。
早速、学校の先生に進学の意志を伝えてもらうと「優秀な成績だから大学の入試無しで入れるかもしれない」「奨学金ももらえるだろう」という返事をもらいました。このあたりはどの程度の成績だとどういう風になるのか、もっと調べていきますが、彼女のケースに限っては上記のような状況であり、支援すべき金額も見えてきました。
私は正式に、NPO法人を設立することを決めました。
私は彼女一人だけを特別扱いするつもりはありません。これからたくさんの「大学に行きたいけれどちょっとした問題があって行けない」という若者に対し、問題の整理と必要に応じた金額の支援を行っていきます。彼女はその最初の一人になってもらいます。私は彼女からいろいろ学ばせてもらいたいのです。だから支援も受け取ってほしいと伝えました。
しばらくは彼女と二人三脚でNPOの骨組みを作っていきます。そして来年の春、正式にNPO法人が立ち上がった際は、毎年たくさんの若者を大学へ進学支援していきたいと考えています。
なぜ大学進学支援のNPOなのか?
なぜ私が設立するNPOが「大学進学支援」にこだわるのか。それは「教育が人を作る」というのが私の考え方の根底にあるからです。
一人の物乞いの子どもに食べ物を与えても、翌日にはまたお腹がすきます。ワクチンを打って生きることができるようにしても、結局物乞いになるのでは1つの命を救って1しか救われないのです。私が生きている間に世界が変わってくれない。わがままかもしれませんが、私は「掛け算」で人を救える方法を考えたかったのです。そして行きついた答えが「大学への就学支援」です。
もしも一人の学生に就学支援を行い、たとえば医師を一人つくることができたら……その医師がこれから救う命がたくさんあり、その医師の家族が豊かになる。幸せが掛け算になるのです。私はこの掛け算に賭けたい。
どうなるかなんてやってみないとわからない。これまでもずっとそうだった。起業だってやけっぱちで始めたし、死にたかったから海外旅行に行っていたし、日本で接客業をしていても昨日と同じ今日が始まるだけなのが嫌になって海外で仕事をすることに決めた。
私は止まりたくない。
これからもずっと、常に変化しながら、私の人生で救える人の数を最大に出来る方法を模索したい。NPO法人は人生賭けて本気で取り組みたい一大仕事です。
これからどうなるかなんてわからないけど、今日も明日も、きっと私が動くことで誰かが救われる……そう信じてやっていくだけだと思っています。同時進行でフィリピンの方々が日本で働く会社も今つくっています。両方うまくいってくれたらいいけど。どうなるかはやってみないとわかりませんが、日々勉強しながら二つの法人起業を頑張って行きたいと思います。
私のこれまでの人生と、今していることをそのまま書きました。
長文を読んで頂き、ありがとうございました。
私のブログはこちらです。一番お気に入りの記事を貼っておきましたので、よろしければどうぞ。
おじいさんにも性欲はあった話 - 接客業はつらいよ! 人生はチキンレース! あけすけビッチかんどー日記!
はなさん、今回は貴重な機会をありがとう! また福岡で会おうね!
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かんどーさん、素敵な記事を書いてくれてありがとうございました!
大変なことを乗り越えながら海外で力強く生きているかんどーさんからは、力強いパッションしか感じられません!
次にセブに行ったら、絶対かんどーさんの屋台でご飯を食べます^^
今回は福岡で会いましたが、セブでお話をできるのが楽しみです。